隠したいこと

今年の冬はハンドクリーム50g入りを2本しか使いませんでした。
そのせいではないと思いますが、
手の甲の血管が浮き出て見える、手のエイジングは進み・・・
加えて手の甲にはうっすらとシミが点在し
首と手は年齢が出ますよね。
あぁ隠したい。
食洗器のおかげ
我が家には食器洗浄機があり、とても重宝しています。
実際に、食洗器のおかげで冬場の指先のひび割れやささくれがなくなりました。

ただ、一方で、
目に見える手荒れが減ったためハンドケアがおろそかになっています。
結局、今年の冬場のハンドクリーム消費は二本だけですし・・・
日頃の怠けが手に出ますね。
紫外線も敵
顔には日焼け止め。
たとえ日焼け止めを忘れても、帽子などで寝るべく日差しを防ぐなど気を付けます。
しかし、手の甲はあまりしていませんでした。
日焼け防止の手袋は腕を中心にして、手は洗うことが多いため手首までのモノにしていたり
実際に、朝は日焼け止めを塗っていても、日中の手洗い後はつけ足すことはなく。
これから夏にむかう季節、手袋とハンドケアに気を付けます。
もしかしたら、これからもろもろの発達で、見た目は老けないでいられる技術が開発されるかもしれないのでそれに期待しましょう。

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年相応というのろい
肌など多少、エイジングから抗えるものはありそうですが、まぁそれなりにしかなりません。
むしろ私たちは、見た目というよりも年齢にふさわしい「行動」を取ろうとします。
10代20代は学生や若者らしく、そして新社会人らしく振る舞おうとします。
「らしく」という言葉に少々抵抗を感じますが、ここでは流していきます。
周囲や、社会の期待に沿うような行動をすることで
「日本社会にける年相応」の生き方を演じているのかもしれません。
そして、私は50代になり、50代にふさわしい行動を心がけようとしています。
ところが私自身にとっては初めての50代ですから
私が持っている50代のイメージになるわけですが、
年相応というのが、なかなか難しい。
まぁ、結局は、ありもしない他人の目を勝手に自分で作って、自分の行動規範を縛っているのでしょうが。
何歳に見える?
「何歳に見える?」と厳しい質問をしてくる女性に会ったことありますか?
私は、そのような質問に4,5回であったことがありますが、、、、
その半分は明らかに70歳を過ぎている方たちだったので、
「50歳代ですよね?」と答えておけば間違いない。
その後の話を楽しくするための処世術ですね。

一方、微妙な見た目年齢で、その質問をされると困ります。
例えば、5、60代くらいの方に聞かれた時です・・・
人間心理として、「何歳に見える?」と聞かれたら、
「若く見えると言って欲しい」という願望がみえるので、
少なくとも推測年齢より若く伝えますが、さらにそこから5歳くらいは引いておいた方が無難でしょう。
つまり、私たちアラフィフ女性は誰かに「何歳に見える?」という質問をすることは避けましょう。
返ってくるのは、ご希望通りの見た目年齢よりも約10歳は若い年齢です。
つまり、実際の年齢は当てられていると思われます。
「私って若く見えるのね」という淡い期待を持つのはやめた方がよさそうです。
見た目もだいたい年相応に見られています。
年相応の50代とは
「十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず」
論語
孔子の時代、50歳といえばもう老境の時代、それ故、50にして天命を知るとは今までの生き方で、既に己の限界を知り、あきらめよ、ということだと思うのです。
しかし、今実際に50代になって思う年相応の50代は、
「30代よりは老いているけど70代に比べたら若い」し
「50歳から何かを始めても、平均寿命を考えると2、30年以上は続けられるわけだから形になる」と思う。
平均寿命が変わってきたこともあり、50代というのは昔の30後半から40代でしょうか。
人生はまだまだ長いのですから、諦めない発言や行動こそ、50代の年相応なのかもしれません。
すなわち「まだ若い」「まだまだいける」と考えることが、今の年相応の50代。
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シビアなのも事実な50代
まだまだ50代という人も多い中で、
「人生も後半」残りは余生・・・と思うのも事実。
身体的なところではまさに、その通り。
腰痛や高血圧・血糖値・中性脂肪、更年期、深刻な場合はガンなどを患い50代からは誰でも「もう若くないな」とあきらめの気持ちも半分ある。
老後資金2000万円必要、ときくと、「今からじゃ間に合わない・・・。」と不安になる。
「まだまだ若い」と思う反面、「あきらめ」のような、気持ちのギャップがある。
孔子は40にして惑わず、とおっしゃっているので、
この気持ちのギャップがあるのは、孔子様が言う40代にもなっていないのかしら・・・・
人生100年時代の新しいライフスタイル
人生100年時代に突入した今、私たちのこれからの残りの50年は、
「新しい年相応の50代」になるわけです。
何を見てメモったのか忘れましたが、私のメモ帳に
「時代を生きるのではなく、時代をつくれ」と書いてあります。
誰のセリフか明確ではないのですがテレビのドラマだったと思います、、、。
歴史の教科書に載るような人間だけで時代が作られているわけではないのですから
私たちの生き方がこの時代の年相応の50代になるわけですね。
年相応の50代に 勝手にとらわれていたから、少し、気が楽になりましたね。
話は戻りますが、40にして不惑
「すごい論語」安田登(著)2019ミシマ社 によると、
孔子の時代に「惑」という字はなかったから、
「40にして惑わず」と孔子は言っていないはずなのだそうです。

その時代にあった字としてはおそらく「或」
「或」は「区切られた区域」を表す。分けること、限定すること。
となると「40にして不惑→40にして不或」となり、
その意味は「自分を限定してはいけない」となるそうです。
人は四十歳くらいになると「自分はこんな人間だ」と限定しがちになる。
「自分ができるのはこのくらいだ」とか「自分はこんな性格だから仕方ない」とか「自分の人生はこんなもんだ」とか。
だから、「不惑」とは、
四十歳くらいは「そういう心の状態になるので気をつけなさい」
むしろ「四十歳こそ自分の可能性を広げる年齢だ」という意味になるということです。
今の時代の50代が、孔子の時代の40代くらいと想定すると、
孔子様が言う通り、今の50代の私たち、「自分はまだまだこんなものではない」と考えてよさそうです。