葬式が心配

この頃、84歳の母は「死」への不安が大きく、私や孫に会うといつも「葬式が心配」と言います。
その上、心配が心にあるせいか、ちょっとしたことでよく「キレます」。
高齢者がキレると面倒で、一方的な口撃が始まり、手が付けられません。
今回はこの「葬式心配」話についてです。
誰の葬式?
母親が心配するお葬式は、同い年の夫の式と自分の式、2件についてです。
「終活」がメディアで盛んに取り上げられるようになってからですから、数年前から言い出し、エンディングノートを購入したりもしています。
ただし、そのエンディングノートへの書き込みをしない夫への不満を言うものの、自身用のノートにはなかなか手がついていないようです。
実際に葬式を出すのは私たち夫婦なので、数年前に私たちは葬儀場を3件ほどまわり、葬式や法要の流れや料理を体験し、積み立ても始めました。
私たちは見学した後に、式までの流れや料理の説明などを両親にして、了解を得たはずです。
特に父は、「それで頼む、任せる」といい、延命治療不要の意思を表明し、私たちも友人等の連絡先を確認しました。
なぜ、母は気に入らない
父が延命治療を望まない、具体的にいうと、呼吸器装着と胃ろう装着は、延命のためならばしない、ということです。
そのことについて母は、命が助かるならば装着すべきだ、と言いはります。
では、母親には延命治療をするねと言うと、「私にはいらない」と言います。
私はみんなに迷惑をかけたくないから延命はしてほしくないが、お父さんにそれをしないと近所の人や親せきになんていわれるか・・・。
だから、オレが自分でそれを望んでいたと言えばいいだけだろ。
それに、「葬式」は残された人が出すものだから、本人は葬式の心配をする必要はないんだから。
そんなこと言って、残された人は大変でしょ。どうしてほしいか伝えないというのは無責任でしょ。
どうしてほしいなんて思わないよ、死んでるんだから。残された人がしたいようにすればいい。
その時の年齢や親せきの様子にも寄るけど、85歳を過ぎたら家族葬にするけどいい?友達も少なくなったし、来てもらうのはエライから伝えるだけ伝えるって感じ。
あぁ、ムリでないところで頼むわ。
お金のことだってあるでしょ?私は積み立てしてあるから。
この頃みんな家族葬って言うけど、結局後で弔問に行くからお互い面倒だと聞くし。
お母さんは、ホール借りてお葬式を出したいってことなら、そうするよ。
別にそういうわけじゃない。
私なんて小さくてかまわないけど…
とにかく、父親の言うことには反発をして、話をこじらせようとしているようにしか聞こえません。


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周りを巻き込む
そして何よりも面倒を大きくするのが、母親が相手を選ばず誰にでも自分の心配を言うことです。
近所の方はもちろん、高齢夫婦を心配して時々訪問する民生委員さん、田舎の村おこし協力隊の若者、あやしい訪問販売、電気や水道の検針の方など誰彼構わずです。
面白いのは、どうも多くの方が「家族葬」を勧めるようです。
まぁ、高齢夫婦の葬式を相談されたらそう答えるでしょうから、皆さん本当に親切に聞いてくださっているのだと感謝しかありません。
先日は、お盆に来てくれたお寺の若住職に母が相談をしたところ、「自分(若住職)が来るからこの家で葬式を出しなさいよ。」と言われたそうです。
確かに田舎なので、私が記憶にある祖父などの葬式(30年以上前)は、家にお坊さんを呼んでお願いしましたが、それ以降、田舎でも家で葬式を出すところはほとんどないと思いますし、ご近所でも葬式といえばマイクロバスで皆で式場に送迎してもらうのが定番です。
結局母は、「積み立てしてあるから○○で葬式を出すけど、そこに来てくれますか?」とオファーをしたそうです。
もちろん、若住職が「快諾」して話がおさまったそうです。
本人はよかったよかったと言っていますが、自分の葬式のお坊さんを決めることで、不安はなくなるのでしょうか?
実際にそのお坊さんと母の間でどのようなやり取りがあったのかはわかりませんが、おそらく「死んだ後」のことまで心配り(こころくばり)できる自分(母)という自己アピールを、お坊さんが認めて褒めてくださったのではないかと思います。
つまり、葬式の心配は、葬儀場ではなく、お坊さんに相談するのがよさそうです。


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残された時間
とにかく母は、「自分が死んだあとの現実世界」のことを心配します。自分が死んだあと、誰かに迷惑をかけないようにしておきたいと。
一方父は、「死んだら自分は天国に行って、現実世界にはもういないんだから」、任せておけばいいよと言います。
死んだ後も「主体としてそこに居たい」母、と「そこからはいなくなる」という父、それぞれの死生観なのでしょうか。
うまく表現できないけれど、母の方が実は「死んだらすべて終わり、無くなる」と考えていて、父は「まぁ、一旦この世界からはいなくなるけど、また次に~。」という感覚のような気がします。
だから、母は残された時間に「焦り」のようなものを感じていて、父はのほほんとしているように見えるのではないかな。
いつかは訪れる「別れ」なのですが、どのくらいの時間が残されているのかはわからない。
死生観にもいろいろあり心がまえや苛立ちの見え方が違う。こういうことを考えさせてくれていること自体が、先に生きてきてくれた両親の教えなのでしょう。
やり残したことリスト
残された時間がどのくらいなのかわからないのは、高齢者に限ったことではありません。
私たち自身も、若い世代の息子たちも。
やり残したことリスト、があるとしたら実は、数年前から考えているのは家族旅行なんですよね。
数年前までは子どもたちが小さかったのと父が入院したことで予定が立てられず、3年前に立てた計画は、土壇場の母の一存で突然キャンセルしてしまい後で「やはり行きたかった。」と言われる始末。
両親が動けて、長男が高校卒業するまでにと思っていますが、今年はコロナ禍で外出の計画が立てづらくなってしまいました。
「葬式の心配」よりは楽しいこと考えていてほしいし。来年はなんとかなるかな?